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dey163:コロンブスダメなの。【1740PV】

注意

※当記事は強い政治的意思表明を含みます。
不快感を覚える可能性があります。
覚悟が必要です。
猶予があるうちに、得るか去るかを選択してください。

 

 

※やたら長いから注意。全部で2700文字超えた。
小説の一説かよ。エンタメとして読んだ方がいいよ。

 

 

 

 

 

 

Mrs.グリーンアップル?というバンドのMVが日本人から強く抗議を受けて公開停止した。
私の個人的な私見を書く。

「奴隷制度を強く想起させる表現だからダメだ」
とのこと。
Xのトレンドに乗って気になったので公開停止前に視聴した。
確かにイギリス人だかフランス人だかわかんないのが
類人猿を引き連れてエジプトやら(あとは忘れた)を旅してたな。
ピアノを教えたり、モノを運ばせたりしてたか。
途中に劇中劇で決闘?で片方が倒れたのを見てコロンブスらが泣くシーン
あったが。機械ではないって言う表現じゃないかな。

コロンブス、類人猿、労働、教育ときたら奴隷を思い浮かべても
仕方がないかもしれない。

だが、待って欲しい。
それの何が問題だ?
すでに当時の奴隷であるネイティブアメリカンと呼ばれる人たちの子孫は
自立した意志を持つ人間として独立心を持ち法治国家の中で生きている。
彼らが歴史的事実であるコロンブスの原住民の奴隷化を批判するだろうか?
当事者が批判するのならそれは意思表明として認めるべきだ。

今回起きた現実は、
コロンブスというタイトルのMVで類人猿みたいなのを指して
「奴隷扱いされた当時の人々を何だと思ってるんだ!」
と主張して自粛を促したモノであり、結果的に経営判断としてそれが通った形だ。
コンプラ問題、という事だろう。顧客を考えれば当然だ。

しかし、言論を志すもの・自由を標榜するものが歩みを止めてよいのだろうか?
私は否だと思う。

問題提起された今こそ、
奴隷とは何か?コロンブスが何をしたのか?
現代に存在している子孫や当事者はどう感じるのか?
これを知るべき機会だったのではないだろうか?

例えば、
ヒトラーが戦争を始めた時代に彼を”独裁者”と揶揄して映画を作った人物がいる。
大ヒットして広く耳目を集めたそうだ。

ファシズム・独裁を揶揄して自由の価値を標榜したのだ。
蛇足だが、最後の演説の部分の切り抜きを見た印象を話す。
あれは傲慢(グリード)な人間が心を失って機械のようになるから
どんなに約束として良いことを主張しても愛がない世界ができてしまうのだ。
という話だと思う。
後半で語気が荒くなり理想を語るのだが、
語る本人こそが傲慢に飲まれてゆく過程そのものなのではないだろうか?
理想を語り約束をし愛を主張して最後には団結が大事と言いながら強い言葉を繰り返す。
ファシズムの独裁者に似た姿になっていく…
恐怖と感動を覚えた。よい作品だな。全編を観たことがないが。パブリックドメインなのだろうか?

私は今回の事案を自己の成長に活かした。
それだけは事実だ。

さて、考察を続けよう。

結論を言うが、
奴隷制度を揶揄されて困るのは現代の白人至上主義者やその追従者の方だと思う。
もし彼らがMVに強く感情的な批判をしたとしたら、
それこそ世界中から嘲笑の対象になる…ような教養がある人々によって運営されている世界だと信じたいが。

つまりは、
奴隷という強制を行う独裁者を揶揄するのを非難するのならば、
それは独裁者の肯定、ファシズムの肯定ではなかろうか?
私はそう考える。

 

私は自由が大好きで、ファシズムが嫌いだ。
当然、嗅覚が働いて鼻を摘まむことになる。
主張する人々が無自覚であるというのも懸念の一つだ。
個々の主体性を喪失した日和見主義…迎合主義者たち。
自身の主張がどの勢力に属するものなのか無自覚な自由意思のない人々…
これでは民主主義も国民主権も成立しようがない。
他国のごく少数の勢力に所属しようとしているという事に気が付くべきなのでは?
世界中にそんな奴らばかりなのかもしれないが、それは現在の私には知る由もないことだ。

アートは自由で良い。
外野による弁論も批判も自由で良い。
ただし、表現を委縮させるのは他者の自由の侵害である。
これに尽きる。

 

ここから蛇足:

ミセスでアップルって言ってるんだから、
禁断の果実・知恵の実をかじったイヴのことではないだろうか?
原罪を背負った最初の一人だ。

そして創成期にはアダムとイヴの子孫以外の人類は存在しないことになっている。
少なくとも、経典宗教の人々はそう解釈していた。
人間と神以外の動物は獣である。
アダムは獣たちに名前を付けて回ったのだ。

原罪を象徴する女を冠するアーティストが、
コロンブスというタイトルで、
類人猿と交流するというストーリーだ。

これの諧謔と愉快さを理解できる教養が人々にあるのだろうか。
理解したうえで批判するというのなら、それは正しい批判だと思う。

ただただ空気を読んで強く批判される前に身内で弱く批判しあって自粛しようというのは
創作活動の妨げではないだろうか?

私はアニメオタク・サブカルオタクの道を通ってきた。
歩んだ歩数はともかくかけた時間だけは長い。
社会からオタクというものは差別して良い対象だと
認識されている世界でも好きなものを自由に楽しんできた。
あらゆるカルチャーは知の宝庫であると思う。知は価値があるものだ。

消費者としてのオタクも創作者としての誰かも
社会からの蔑視と戦い続けてきたのだ。それが冷戦であっても。
今回のMVによって被差別的感情を想起される人々が
そのような戦いができない軟弱で保護するべき対象と考えるのは
それこそが差別である。
これについては慎重に自身を観測して護りたいものを選ぶべきだ。

誰かが言った。
「こんなMVを公開しては世界中からレイシストと罵られるぞ!」
これについてはどうだろうか?

私は思う。
アートとしては正しい。
人々の関心を動かし、言葉として主張するほどの反動を生み出すのだから。
ビジネスとしては正しくない。
ターゲットとする顧客が先鋭化するのだから。
元々のファンは理解するだろうが、大衆はわからない。
教養亡きインフルエンサーたちが活発に批判(誹謗)活動をしていたのを観測した。
コンプラとしては停止は妥当だろう。

では、言論も停止するべきか?
私はやめなかった。そしてこの記事を書いた。
あとは観測する人々の自由意思と評価に任せる。

私個人の意思を表明するものであるが、
特定の個人や集団の行為を強制する目的のものではない。
結果的にそうなるのならば認識を改める用意があるが。

私が人々に共有したい価値観と社会の蓋然的な価値観…
そして実際のそのものの価値はどう乖離するだろうか。
観測可能ならば、干渉も可能なハズだ。
たとえすべてにではなくとも一部には。
一歩あればそれは前進である。
スカラー的前進ではなくベクトル的前進でありたいものだ。

…と書いて結ぶ。

 

以下、愚痴

相手を理解しようとして言葉で試金石を投じたものがぜんぶ屁理屈だってさ。
わかいってすばらしいね。
なんでも否定すれば自己肯定できるんだからさ。
無敵なんだよなあ。

 

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